小説本編

🍋 第三章🎵 A Whiter Shade of Pale ─ 微かな色のなかで、心を重ねる午後by Procol Harum(1967)

ミオとルナのMorningWords

3章アイキャッチ

代官山。

休日の喧騒から少し離れた裏通りには、緩やかな時間が流れていた。

坂道を登り切った先に、そのカフェはひっそりと佇んでいた。

店の名前は「Ciel(シエル)」。

フランス語で“空”を意味する言葉。

白く塗られた木の看板に手描きの文字、ドアの前には黄色いミモザのドライフラワーが飾られ、店の周囲には小さな鉢植えのハーブが並んでいた。

ミオは、メモ帳をバッグに収めながら深呼吸をした。

「こんにちは。ミオと申します。取材で伺いました」

ドアを開けると、ベルの音と共に、柔らかなハーブの香りが鼻腔をくすぐる。

迎えてくれたのは、店主の女性だった。

淡いカーキのワンピースにベージュのリネンエプロンを重ね、髪はゆるくまとめられている。

指には小さなゴールドのリング。

まるでこの店の雰囲気をそのまま体現したような佇まい。

「ようこそ。……今、ハーブティーを淹れてますね」

店内は10席ほどの小さな空間。

木の温もりがあふれ、黒板には手描きのメニュー。

棚には手づくりのジャムやキャンドルが丁寧に並べられている。

壁には、季節ごとに描かれた水彩画と、お客様からの小さなメッセージカード。

「このお店、あたたかいですね。どこか、誰かの家みたいな」

ミオは、テーブル席に腰かけながらそう伝えた。

「……そう言ってもらえるのが、いちばん嬉しいです」

微笑んだその表情に、どこか陰があることにミオは気づいた。

ミオはノートを広げながら、いくつかの質問を投げかける。

お店を始めたきっかけ。 内装へのこだわり。

メニューの工夫。

店主は丁寧に答えてくれたが、どこか言葉に力がない。

お茶を差し出したとき、ティーカップの縁を指先でなぞる仕草が、どこか不安げだった。

「このカモミールとレモンバームのブレンド、すごく好きです。香りも、優しくて」

「よかった……そのブレンド、落ち込んだときに自分用に作ったものなんです」

そのひとことに、ふっと空気が変わった。

「最近、少しだけ……心が折れかけてて」

ぽつりと、店主が呟く。

「実は、常連さんが急に来なくなってしまって。忙しいだけなのかもしれないけど……自分のせいじゃないかって、考えちゃうんです。まるで、自分が否定されたみたいな気がして」

その言葉には、静かな痛みが宿っていた。

ミオは、そっと紅茶のカップを置き、店主の目を見た。

「……そう感じるの、わかります。誰かが去っていくと、自分が足りなかったのかなって、思ってしまいますよね」

店主は驚いたようにミオを見て、少しだけ目を伏せた。

「この場所を作るまで、ずっと夢だったんです。会社員だった頃、朝が来るのが憂うつで……でもカフェで過ごす数分だけは、心が休まった。 いつか、自分もそんな場所を作れたらって思って」

「……夢って、叶えてからが本番なんですね。思ってたより、ずっと苦しい」

ティーカップを持つ手が、わずかに震えていた。

ミオはそっと自分のノートを閉じ、言った。

「居場所って、誰かに与えてもらうものじゃなくて、自分が“ここにいたい”って思える場所だと思うんです」

「でも、その“いたい”って気持ちが揺らいじゃう時って、ありますよね」

「あります。私も、今の仕事に就いてから何度も……本当に書きたいものって、これだったかなって迷うこともあるんです」

沈黙。

けれどその沈黙は、心をじんわりと包む、やさしい間だった。

「でも……今日、ここに来て、すごく安心したんです」

「え……」

「取材って、バタバタしてることが多いんですけど……ここの空気って、時間がやわらかくなるような感じがして」

ミオの言葉に、店主はぽろりと涙をこぼした。

それを見た瞬間、ミオの胸にも小さな熱が灯る。

『その人の心に寄り添えるのが、あなたの強さよ。気づいてる?』

ルナの声が、彼女の中にふわりと届く。

「それ、うちの猫がよく言うんです。……ちょっと変ですよね」

店主は、くすっと笑った。

笑いながら、涙を拭う。

「ありがとうございます。……言葉って、ほんの一言で人を救うことがあるんですね」

その言葉を聞いたミオも、微笑んだ。

「……夢って、きっと道の途中がいちばん苦しい。でも、その途中で出会えた言葉とか、気持ちとかが、きっと何かを変えていくんだと思います」

その後、話はしばらく続いた。

開店当初の苦労、最初の常連さんとの出会い、季節ごとのメニュー。

そして最近は、「自分の“言葉”が、人にちゃんと届いているのか自信がない」という悩みも。

ミオはそのすべてに耳を傾けた。

取材が終わる頃には、空が赤く染まっていた。

帰り際、ミオは一度だけ振り返った。

カフェの中で、彼女がカウンターを拭きながら小さく鼻歌を歌っているのが見えた。

「心が折れそうな朝に、温かな香りのする居場所を」

──それが、今日の特集タイトルになった。

店を出ると、肌寒い夕方の風が、そっと頬を撫でた。

代官山の坂道を下りながら、ミオはバッグの中のノートをぎゅっと抱いた。

ふと、大学時代のノートを思い出す。

就職活動がうまくいかず、何もかもが空回りしていた日々。

あのときも、ルナが言ってくれた。

『夢に向かって焦るよりも、今を愛してあげなさい』

今日の取材で、彼女は大切なことを思い出した。

「わたしも、いつか誰かにとっての“居場所”を作りたい」

それは、ミオがずっと胸の奥で温めていた、未来のカフェのかたちだった。

“恋も夢も、一休みも、ここにある。”

自分の言葉が、誰かの背中をそっと押せたら。

それができる人間になりたい。

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